エミル・グレーアムは刑務所にぶち込まれた。
もはや少年は何もかもに絶望していた。幾度となく自ら命を断とうかとも考えた。そんな時だった。
何の前触れもなく唐突に、エミルは釈放されたのである。何が何だかわからないエミルの目の前に現れたのは、ディリアスと名乗る大人の男だった。
「大丈夫だ。君は悪くない。私が君を許す。そのかわり君には、我が国の眠れる希望のための生け贄となって欲しい。君には素晴らしい才能と素質がある。君こそ相応しいのだ」
幼い少年がどこまでを理解していたかはわからない。だがそれは、エミルにとって救いの手以外の何者でもなかった。
エミルは、ディリアスについていった。
それからのエミルは、ディリアスのもとで魔法を磨くためにひたすら鍛えられた。より上質な生け贄となるために。
才能ある彼は、時間とともにメキメキと実力をつけていった。
やがてエミルは、成長するにつれて、生け贄となったことを誇りに思うようになっていた。自分は選ばれた人間だと思えるから。実際、彼以前の生け贄に選ばれた人間は皆、優れた容姿と魔力を兼ね備えた特別な者たちだった。自分もその一員になれて、彼は嬉しかった。
ただ......。
彼は優れすぎていた。ある者は彼を見て「史上最高の生贄」と称賛したという。それは誇らしいことではあったが、問題は別にあった。
彼はその優れすぎた能力ゆえに、いつの日からか、まわりから気味悪がられ始めた。天涯孤独の身だった彼が、孤独に向かって突き進んでいくのは必然だった。
十歳になる頃には、彼は完全にひとりぼっちとなっていた。
多忙を極めるディリアスは、修行以外に関われる時間はほとんどなかった。
彼とマトモに関わるのは、ディリアス以外ではブラッドヘルム城の一部の大人たちだけ。彼らはエミルを大切な生け贄として丁重に扱ったが、それは少年の孤独な心を癒すものではなかった。
「この人たちは、ぼくが生け贄だから大切にしてくれるんだ。もしぼくに生け贄の価値がなくなったならば、もしかしたらディリアス先生だって......」
少年エミルは、そんなことさえも考えていた。
そうして彼が十三歳になった頃......。
エミル・グレーアムは、眠れる王女殿下の警護を務めるようになる。異例の大抜擢だ。類い稀な彼を見て、ディリアスがそのような判断を下したのである。
しかしこの頃のエミルは、以前ほどこのような事柄に喜びを感じなくなっていた。
選ばれることより、同年代の子供たちと一緒に遊びたい。特別であることより、普通でありたい。まわりと違うことより、まわりと同じでありたい。
そんな平凡な想いを胸に抱いて、ますます孤独感を募らせていた。
ある日。
人通りの多い往来を歩いていたエミルは、思わぬ騒動に出くわす。何かのトラブルで暴走した荷馬車の馬数頭が、街の通りを半狂乱で駆け回っていたのだ。
街が騒然とする中、馬から逃げようとした親子がつまずいて道端に転んでしまう。そこへ暴れ馬が狂ったように襲いかかっていった。
その光景は、エミルの心に幼き日の記憶を鮮明に蘇らせた。繰り返してはいけないーー!
「ああ!!」
誰もが悲劇を確信したその時。
「!!」
ブシァァァッと鮮血の花火が迸った。突如として発生した風刃が、暴馬の首をバッサリと刎ね飛ばしたのである。
地面に転んだままの親子の全身は、血の雨を浴びて真紅を彩っていた。
そして親子の視界に現れたのは......血塗られた手を差し出してきた、血染めの美少年だった。
「い、イヤぁぁぁぁ!!」
悪魔を見るような、恐怖にすくむ親子のその表情は、エミルに痛ましい衝撃を与える。
エミルは飛び出した。途端に何もかもが嫌になった。
「もう生け贄らしく、さっさと血を吸いつくされてしまいたい......!」
エミルが目指した先は、吸血姫が眠る一室だった。
神聖なる寝室。今まで一度も足を踏み入れたことはない。隙をついて風の疾さで侵入した彼は、ベッドに眠る吸血姫へおそるおそる近づいていった。
「!!」
まるで......不幸の海から浮かび上がることを許されず、五百年間の長き眠りの底へ埋められたままの、悲しいまでに美しい寝顔。
目にした瞬間、エミルの中で何かが砕けちった。と同時に何かが形成された。大地が割れて空が浮かび上がるかのように、雲が裂けて海が落ちてくるかのように、彼の心に天変地異が起こった。
「ぼくは、ぼくは、この方の、いけにえ......」
がくんと膝から崩れ落ち、わなわなと震え、涙を流した。
その時、異変を察知したディリアスが入室してきたが、エミルはしばらく気づくことができなかった......。
「それ以来、ディリアス様は入室を許してくださいました。それも理由があってのことではありますが。そうして私の心は......その日から王女殿下の美しい寝顔を見ることにより、平穏さを保つようになったのです」......語り終えたエミルは、もう死んでもいいとでも言いたげに、感極まっていた。夜空には煌々と満月が浮かび、数えきれない星々が瞬いている。夜風がリザレリスの頬をそっと撫でた。その時、風に飛ばされたしずくがきらめいた。「お、王女殿下!?」エミルは、ハッとする。リザレリスの頬に一筋の涙が光っていたから。「あ、あれ?」リザレリスは頬をぬぐう。自分でも気づかなかった。ただ、ひどく悲しい映画を観た直後のような脱力感に満たされていた。遊び人だった前世の人格にも、このような感受性は備わっていた。むしろ案外涙もろいところもあった。なので、エミルの話は少々刺激が強過ぎたのかもしれない。「も、申し訳ございません。私がつまらない話を長々としたばかりに。つい王女殿下の前で舞い上がり過ぎてしまいました」どうして良いかわからず、エミルは深々と頭を下げた。まさか自分ごときの話に、王女殿下が涙を流されるわけ
.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚その夜。リザレリスは不思議な夢を見た。 何もない白い霧のような空間に、自分と、誰かがもうひとり。向かい合っている。ぼんやりとして、顔はわからない。「......おまえは、だれ?」「私は、あなた」「え?」「あなたは、私」「よく意味がわからないんだけど......」「あなたが自然でいられるよう、私ができるかぎりの不自然を取り払います。だから安心して」「いったい何のことを......」
【3】「吸血姫の復活だぁー!!」翌日は朝からお祭り騒ぎとなっていた。昨日もそうだったが、今日は熱気の度合いが違う。『五百年間の長き眠りからの吸血姫の復活』それが真の意味で成された。昨日のリザレリスの醜態は完全に覆された。赤飯を炊けー!という叫びが聞こえてきそうな城内の盛り上がりは、またたく間に国中にも波及していった。「な、なんか、ハズいんだけど......」再び玉座に座らされたリザレリスは、肩をすぼめてうつむいた。王女の隣に寄りそって立つディリアスは感慨深く息をつく。「本当に、良かったです」同様に玉座の御前に並ぶ廷臣たちもうんうんと頷く。ますます戸惑いを募らせるリザレリスは、助けを求めるようにディリアスの腕を掴んだ。「な、なあ。あいつはどこにいるんだ?」「あいつ、とは?」「エミルだよ」「彼はまだ医務室で休んでいるはずですが」「本当に大丈夫なのか?」「ええ。問題はございません」「なら、いいけど」「気になるのですか?」「だ、だって、俺...わたしが血を吸ったから」「それが生け贄としての彼の役割なのです」「そ、そりゃそうだけど」「お気に召したのですか?」「お、お気に召したっていうか、あいつイイ奴っぽいし」リザレリスの言葉に、ディリアスの眼鏡の奥の目がキランと光る。「王女殿下がお望みなら、彼を男妾にしていただいてもよろしいのですよ」「だ、だんしょう??」聞いたことのない言葉だったが、リザレリスはすぐに意味を理解した。彼女に宿る前世の男は遊び人。物事を深く考えない割には、そういうモノへのアンテナだけは敏感だった。「そ、それは......」リザレリスは変な気分になる。女に生まれ変わったばかりの彼女には、まだ女としての心構えができていない。だからこそ昨夜「政略結婚」というワードを耳にして、生粋の女以上に気が動転してしまったとも言える。しかし今のリザレリスの心の中には、また別の感情も存在していた。「エミルには、そういうのは違う気がする......」リザレリスは神妙に言った。それは女遊びに明け暮れた前世の人格から出た心の声だった。前世でも、遊び人だったからこそ「遊んではいけない娘」は避けていた。それは危機管理であり、遊び人なりの一応の良心でもあった。とはいえやがてはミスを犯し、最終的には恨まれて刺殺されて転生して今
そんな時だった。「なんだ?」と隣のディリアスが何かに反応した。何かと思いリザレリスは視線を彷徨わせる。すると、玉座に向かって三人の重臣が歩み出てくるのが目に入った。「いったいどうした、ドリーブ卿」ディリアスが声をかけてもそれには応えず、三人の重臣たちは王女の面前まで来て跪いた。ディリアスは怪訝な表情を浮かべる。「ドリーブ卿、なんのマネだ」「ディリアス公。私は王女殿下の、そして我が国の未来のために、こうしております」三人の真ん中にいる、ドリーブという名の中年男が口をひらいた。この小太りの侯爵は〔ブラッドヘルム〕の外務大臣を務める重臣で、狸のような狡猾な面構えが印象的だ。ディリアスより位は下だが、手練手管の政治力を駆使し、彼に匹敵する確実な勢力を築いている。「こんなタイミングでわたしになんの用だ?」リザレリスがドリーブに言葉をかけると、ディリアスが割って入ってくる。「王女殿下はもうお退がりくださいませ」「なんでだ?こいつがわたしに話があるんだろ?」「さようでございます!私は王女殿下にお話しがあるのです!」してやったと言わんばかりにドリーブが声を上げる。「ドリーブ卿。王女殿下に対して失礼ではないのか」ディリアスの口調が厳しいものになる。リザレリスは小首を傾げる。「どうしたんだよ、ディリアス?」「王女殿下。ここは私の言うとおりに...」「べつに話を聞くぐらいいいだろ?」「ですからここは...」なぜか執拗に食い下がるディリアスに、リザレリスは苛立ちを覚える「なんでそこまでおまえに指図されなきゃならないんだよ」王女の言葉にニヤリとしたドリーブは、大きく息を吸い、ここぞとばかりに声量たっぷりに口を切る。「王女殿下!」「なんだよ。声デカいな」リザレリスはディリアスを制して話を聞く姿勢を見せた。ドリーブは心の中でよしと呟く。「今、我が国は大変な状況にございます!」「経済が逼迫してるらしいよな」「五百年間の眠りから覚めたばかりの王女殿下には、まだその実情まではおわかりにならないかもしれませんが、これはまごうことなき事実です。この点について、誰も意見の相違はないでしょう」ドリーブはディリアスに一瞥をくれる。これにはディリアスも頷くしかない。確かな事実なのだから。「それで、このような衆目に晒された場所で、ドリーブ卿は王女殿下に対し何を
広々とした玉座の間は、にわかにザワついてくる。重臣たちの表情は二通りに割れていた。微笑を浮かべるドリーブ派と、険しい顔をするディリアス派(伝統派)に。昨夜の会議においても、伝統を重んじるディリアス派は王女の政略結婚には極めて慎重だった。一方でドリーブ派は、使える手段は何でも使うべきという姿勢だった。両派とも、対立するのは今に始まったことではない。もはや国王の権力が衰退してしまったこの国では、力のある閣僚同士の争いの勝者が、国家運営を決定付けていた。「もう解散だ!」たまりかねたディリアスが手を挙げて閉会宣言を告げた。閣僚とはいえ、今のディリアスは国王代理。客観的にも実質的にもドリーブよりも立場が上だ。それでも臣下の者たちは動こうとしなかった。ドリーブの提案に興味を示さざるを得ないのだ。現在の国の窮状は誰もがよくわかっている。王女の政略結婚が、現状を打破する有効な手段であることは否定できない。「ドリーブ侯!具体的にどのように実現するのですか!?」しまいにはそんな声までもが飛んできた。「五百年間の眠りから覚めた唯一の正統なる王女殿下を、友好国とはいえ他国の王子と結婚させるなど許されるのですか!?」ディリアス派からも声が上がる。これを皮切りに場内は騒然となった。当のリザレリスは「政略結婚ってマジバナだったのか?」とディリアスに詰め寄る。「王女殿下。違うのです」ディリアスは否定するが、もはや彼にも場を抑えられない状況になっていた。策略通りのドリーブは、王女殿下の面前で勝ち誇った顔で立ち上がり、振り返った。そして紛糾する玉座の間にいる全員に向かい、大演説をぶつ。「ディリアス公をはじめとした伝統派は、王女殿下の政略結婚には反対です。わかります。わかりますよ。私にも我が国の伝統を重んじる心は当然あります。どんなに国が衰退しても、守らなければならないモノというのは必ずあります。外交を担うものとして他国へ訪問する機会の多い私だからこそ思います」巧妙なドリーブは、決してディリアス派を真っ向から否定も批判もしない言い方を心得ていた。よく言えば相手の尊重であり、悪く言えばズル賢い。「しかし皆さん。よくよく考えてみてください。我が国の建国の歴史を。そもそも我が国は、当時のウィーンクルム王女と婚姻を結んだヴェスペリオ・リヒャルト・ブラッドヘルム王によって建国された
【4】リザレリス王女とウィーンクルム王子の結婚の話題は、まるで既成事実かのように国中へ広がっていってしまった。ドリーブはマスコミにも強いパイプを持っている。彼の息のかかった新聞記者たちが動いたに違いない。「このような事態になり、大変申し訳ございませんでした」夕陽が射しこむ王女の自室で、ディリアスはリザレリスに深い謝罪を示した。これは完全に失態。ドリーブにいいように出し抜かれてしまった。頭を垂れながらディリアスは歯ぎしりを抑えられない。このような状況になってしまった以上、表立って政略結婚に反対することも難しくなってしまった。ここでディリアスが反対意見を表明した場合、ドリーブの張る論陣はこうだろう。「ディリアス公は自身の権力が揺らぐのを恐れて王女殿下の結婚に反対している。国家の窮乏も顧みず、己の権力欲のためだけに」実に巧妙で狡猾。ディリアスは追い詰められているのだった。しかもドリーブの、政略結婚を正当化する理論自体は間違ってもいない。王女殿下が目覚めてから僅かの間によく練り上げて実行したなと、ディリアスは感心すらしていた。事実、思想信条や人格は別にして、ドリーブは極め
翌日のよく晴れた午後。リザレリスは城門を抜け、街へ飛び出した。昨日の今日で城は何かと騒がしかったが、ディリアスのおかげでこっそりと抜け出すことに成功した。ディリアスいわく、城にいてドリーブ派に接触されるよりは、いっそ外出するのは良い方法かもしれないとのこと。質素な服(といっても小洒落た町娘ぐらいのレベル)に着替え、古風なボンネット帽子を被ったリザレリスは、子どものようにはしゃぐ。「へ〜これがブラッドヘルムの街か〜」王女に転生してから初めての外出。リザレリスはここぞとばかりに異世界というものを満喫できると胸を踊らせていた。もちろん政略結婚の話は気になっていた。しかしこういう時だからこそ外で遊んで気を晴らすのが一番。そう思って彼女は羽を伸ばそうとしているのだ。「城も雰囲気あっていいんだけどさ。なーんか息苦しいっていうか、のびのびできないんだよね」リザレリスは、街の中心街の通りに軒を連ねる店々を興味津々に眺めた。まるで旧時代の、西洋の城下町に旅行にでも来たような気分になり、俄然テンションが上がってくる。ところがだった。 「なんか、やけに人が少ないような?」街の中心部の商店街のはずなのに、閑散としていた。よく見れば、閉まっている店も多い。「定休日なのかな」と呟きながらも、リザレリスの頭の中にはひとつのワードが浮かんでくる。「シャッター街......」だが、せっかく来たのだから楽しまないともったいない。シャッター街ぐらいどこにだってあるだろ。リザレリスは持ち前のテキトーさで気持ちを切り替え、どこか面白そうな店はないかと進んでいった。「おっ、あそこ、なんか気になるかも」ある雑貨屋を見つけ、リザレリスは小走りになると、ふと店前で立ち止まった。それから一歩遅れてきたエミルへ振り返る。彼女の顔は何か言いたげだった。「王女殿下?」「エミルももっと楽しめよ」「私はあくまで王女殿下の護衛です。私などには気にせず楽しんでください」真面目なエミルは微笑み返しながらも仕事の姿勢を崩さない。リザレリスは、ぶぅーっと口を尖らせる。「城では上司もいるからしょうがないだろうけどさ。ここでは他に誰もいないんだしいいじゃん」 「そういうわけには参りません。貴女は王女殿下で私は護衛です」「その、王女殿下ってのもやめてくんないかな。なーんかやりづらんだよなぁ」「それ
入店すると、自然とウキウキしてきたリザレリスは、きょろきょろと店内を見まわした。でもすぐに「あ......」となった。「なあ、エミル」「どうしましたか?」「なんというか、あれだな」 昼間なのに薄暗い店内。埃の被った棚と品々。店の奥に控える店主のオヤジは、座ったままリザレリスたちへ一瞥をくれてから、退屈そうに手元の新聞へ視線を落とした。「ずいぶんと陰気くさいな」思わずそんな言葉が口からついて出てしまったリザレリスだったが、合点がいく。これがディリアスの言っていた「国の窮状」の一端なんだと。「そうだよなぁ」と店主のオヤジが不機嫌そうに口をひらいた。「たしかに陰気くせーよな。以前はまあまあ繁盛してたんだがな」「申し訳ございません。悪気はないのです」エミルが一歩前に出て、リザレリスの代わりに謝罪する。「べつにいい。事実だからな。一時期は〔ウィーンクルム〕からの観光客で溢れ返ったことだってあるんだ」「へぇー、インバウンドってやつか」とリザレリス。「ところが今じゃこの有り様だ。親父の代から続けてきたが、このままじゃ店を畳むことになるぜ」店主のオヤジは新聞をぐしゃぐしゃにしながら吐き棄てた。「そうなんだ......」何を思ったか、リザレリスは陰気な店主につかつかと歩み寄っていく。「リザさま?」心配顔を浮かべてエミルも付き添っていく。「なんだ?嬢ちゃん」店主のオヤジはやさぐれた眼つきで睨みつけてきた。リザレリスはボンネット帽子の下から可憐な顔を覗かせて切り出す。「ひょっとしたら、この辺りの店は全部そんな感じなのか?」「だろうな。それでも開いてる店はまだマシだ。何とか生き残ってるわけだからな。まあでも、地方に行きゃーもっと酷いだろう」「どこもかしこも景気が悪いってことなのか」「一部の金持ち以外はみーんな不況さ。これで〔ウィーンクルム〕との国交が絶たれちまったら、おれたち庶民はマジでどうなるかわかんねえ」「そんなに〔ウィーンクルム〕との国交って大事なんだな」「当たりめーだろ。輸入に輸出に観光に、一体どれだけの影響があると思ってんだ。世間知らずの嬢ちゃんだな」「なるほど。ディリアスやドリーブが言ってたことの実態はこういうことだったんだな」腕組みをしてうんうんと頷くリザレリスを見ながら、ふと店主のオヤジが何かを閃いた顔をする。 「嬢ちゃん
【12】 いよいよ王女が留学のために出国する前日。青空の下、〔ブラッドヘルム〕ではパレードが行われた。リザレリスの提言により無駄な支出は控えられていたものの、ディリアスの立っての要望だった。何より国民のためと言われれば、リザレリスも断ることができなかった。豪勢な馬車に鷹揚と運ばれながら、花道を作る国民に向かい上品な笑顔を作り、しとやかに手を振る王女がそこにいた。「う、うまくやれてるかな」リザレリスは笑顔を維持したまま、隣に控えるディリアスに確認する。「大丈夫です」ディリアスは穏やかに頷いた。リザレリスはほっとする。事前にルイーズから相当厳しく指導されていたので、万がいち失態を犯せばどれだけ絞られるかわからない。留学前日の夜に『王女教育授業』の補講を受けるハメになるのはまっぴらだった。「......それにしても、俺...わたしって人気あるんだな」道に押し寄せた国民は、リザレリス王女を一目見ようと熱狂していた。逼迫した経済状況であることも忘れて。国民のためと言ったディリアスの言葉の意味は、こういうことだったのだ。
【11】留学まで残りあと僅かとなったある日。午前の授業を終え、いったん自室に戻ったリザレリスは、はたとする。「俺...わたしは、なにマジメに王女やってんだー!」ここのところのリザレリスは、日々ルイーズの授業を受けながら、城内と城の近辺だけで過ごしていた。留学したら自由にできると思って、今は大人しくしていたというのもある。ヘタに何かをやらかして留学の話が飛んでしまったら元も子もない。だが、そろそろ限界を来していた。「留学はマジで楽しみだ。なんせ前世でも経験したことないんだから。だから今は遊ぶのも我慢してたけど......もう遊びてー!!」リザレリスは叫んだ。前世の人格から飛び出した、まさしく魂の叫びだった。「てゆーか最近はエミルの奴もあんまり絡んでくれないし。そうだ。エミルを連れ出して、また一緒に外へ遊びに行こう!」思い立ったが吉日。リザレリスはドタドタと部屋を飛び出した。「エミル・グレーアムですか?外に行っておりますが。場所は確か......」臣下のひとりに教えてもらい、リザレリスは廊下を駆け抜け城を出ていく。召使いに命令して呼び出したほうが楽なのに、リザレリスは自分で探しに行った。そうしたかったから。「あっ、エミル!」視界の先にエミルを見つけ、リザレリスは人気のない空き地に向かって翔けた。 「王女殿下?」エミルは驚いて振り向いた。視界の先から、愛しい王女が手を振って走ってきている。「リザさま......」エミルは息を飲んだ。太陽に照らされたイエローダイヤモンドのように煌めく美しい髪をなびかせて、無邪気な少年のように駆けてくる絶世の美少女に。「エミル!」リザレリスはエミルに走り寄っていくと、華奢な体でドーンと体当たりした。エミルはただ驚いた。「り、リザさま」「あ、ヤバい」と途端にリザレリスは膝に手をついて、ゼーゼーと肩で息をする。 心配になったエミルは王女の肩を抱こうとするも、ハッとする。朝からトレーニングをしていた自分の体が汗臭い気がしたから。「ああー、のど乾いちった」おもむろにリザレリスは汗が滲んで桃色に火照った顔を上げて、えへへと笑った。その笑顔から放たれた可憐な矢に、エミルの心臓は射ち抜かれた。「か、かわいい......」「えっ、なんて言った?」「な、なななんでもないです」途端にあたふたとしてエミルは横を向い
【10】王子来訪以来、エミルは城外にある人気のない空き地によく足を運ぶようになっていた。リザレリスを取り巻く状況が変化したことと並行して、エミルの心境も変化していた。もっとも彼の場合は、個人的な感情に起因していた。「精が出るな。エミル」そこへディリアスがやってきた。すでに空は夜に染まっていた。「ディリアス様。お忙しいところ、こんな時間にお呼び立ていたしまして申し訳ございません」エミルは動作を止めて、ディリアスに体を向けた。綺麗なエミルの白い顔は火照り、汗が滴り落ちている。「今は私たちだけだ。そんなに堅い言葉使いはしなくていい」「そうですね、先生。それでは早速ぼくと手合わせ願いませんか?」エミルは意気込んで構えるが、肩で息をしていた。ディリアスは吐息をつく。「少し休憩を取りなさい」「嫌です」生贄の美少年は、熱い青少年の眼差しを向けた。「すぐにやらせてください」「そんなに悔しいか」 ディリアスに訊かれ、エミルは拳をギリギリと握りしめる。「ぼくは王女殿下の生け贄であると同時に護衛です。それなのに......」「フェリックス王子に敗北してしまったと」「はい......」「戦いではないのだがな」「ぼくの唯一の取り柄である魔法で出し抜かれてしまったのは事実です。フェリックス王子にとっては取るに足らないことなのかもしれませんが、ぼくにとっては......」「まるで想い人を取られてしまったような顔をしているな」「なっ、いや、ち、違います!」図星だと言わんばかりに慌てふためくエミルを見て、ディリアスは嬉しそうに頬を緩めた。「あの王女殿下が、あの一件でフェリックス王子とお前を比べたと思うか?」「......そうは思いません。これは、ぼく自身の問題なんです」エミルは視線を逸らして、唇を噛んだ。「つまり、このままでは王女殿下に相応わしい男ではないから修行し直している。こういうことだな?」「はい」「リザレリス王女殿下の意中の男性になるためにはもっと頑張らなければ。こういうことだな?」「はい。......えっ??」やっと言葉の意味を理解したエミルは、またもやあたふたと焦り出した。「そんな分をわきまえない大それたこと、ぼくは!」「では、久しぶりに手合わせするか」と唐突に切り替えたディリアスは、エミルに向かい構えて見せた。「ぼ、ぼくをから
【9】王子ふたりが来訪してからしばらくの間に、リザレリスを取り巻く状況は変化していた。まず、ドリーブの策略によって危ぶまれたディリアスの地位は、以前にも増して安泰した。これはリザレリスにとっても好ましい状況変化といえる。「この度は、誠にありがとうございました......」ディリアスに深々とお辞儀をするドリーブのタヌキ面は、悔しさに満ちたものだった。結果として、ディリアスがドリーブの失策を挽回した形となったからだ。ディリアスがフェリックス王子と王女留学の話をまとめたことにより、ドリーブも救われた格好となったのである。もちろんドリーブ自身リスクは重々承知していた。失敗に終わったこと自体は素直に受け入れている。要するに、政治生命を救われたとはいえ、ディリアスに借りを作ってしまったことが不本意でならないのだ。「し、失礼いたしました......」奥歯を噛み締めてドリーブが部屋から辞去していくと、ディリアスは吐息をついた。「ドリーブ卿は、一番の政敵である私に借りを作ってしまって悔しいだろうな」「これで大人しくなってくれればいいですね」何の他意もなく部下が言うと
【8】城を後にした王子たちは、早々に帰国の途についていた。島国の〔ブラッドヘルム〕の港から、〔ウィーンクルム〕の港までは、船でニ時間あまりを要する。すでに夜だったが〔ウィーンクルム〕が誇る魔導式船舶であれば何も問題はない。だからフェリックスの意見で少しでも帰国を早めたのだった。誰もウィーンクルムとブラッドヘルムを行き来する商船に、王子二人が乗っているとは思いもしないだろう。入国も出国も、いずれもフェリックスの指示で、部下のグレグソンが手配した。第一王子にとって、お忍びでブラッドヘルムを行き来することは容易かったのである。「つーかよ」王子用に用意された客室の中、レイナードは正面に座るフェリックスへ切り出した。「マジで兄貴は何がしたいんだ?」弟の顔には当惑の色が浮かんでいた。兄はふっと頬を緩めて、穏やかに微笑む。「ディリアス様とお話したことがすべてだよ?」「どうせ俺に説明してもわからねーってことか」ふんっと弟は腕を組んで顔を背けた。「物事にはタイミングというものがあるからね」とフェリックス。
「驚かせてしまったようだね」フェリックス王子は、そのままゆっくりと階段を降りてくると、リザレリスを丁重におろした。「ケガはないかい?」「あ、ありがと」さすがのお転婆プリンセスも、しおらしく素直に感謝する。「これはフェリックス王子に一本取られたな。エミル」遅れてディリアスが彼らのもとへ歩いてきた。はたとしたエミルは、即座にフェリックスへ向けて跪く。「た、大変申し訳ございませんでした」「いやいや、悪いのは僕だから。君の動きがあまりに素晴らしかったからね」「い、いえ」頭を垂れたままのエミル。「フェリックス王子は有数の魔導師でもあるんだ」ディリアスが言った。それからディリアスは、侍女姿のリザレリスに視線を移すと、どうしたもんかと考える。フェリックス王子は、彼女が王女だと気づいているのだろうか?気づいていないのなら、このままやり過ごすこともできるが......。そこへディリアスの方針を固める出来事が起
ドリーブは疑問を浮かべ、エミルの耳元へ口を寄せる。「ど、どういうことなんだ?」「これにはちょっとした経緯がありまして......とにかく、王女殿下だということはバレていないようです」エミルの返答に、ドリーブは希望を取り戻し、顔色も取り戻した。「そ、そうか。レイナード王子は、ただの侍女だと思っているということだな」「はい。それはそれでまた別の問題がありますが」「確かに......」 一国の王子が他国の侍女に指を突きつけられているなど、ありえないことだ。ドリーブはひやひやしながら王子と侍女を見守る。「ったく、ここじゃ侍女の教育もままなっていねーのか?」「そんなことより、指輪を渡せよ!」「なーんでこの俺がお前に渡さなきゃならねーんだ。買ったのは俺だ」「割り込んだのおまえだ!」「メンドクセー女だな」「あんだ
「では、私たちも参りましょう」エミルがそう言って、ドリーブを先頭に三人が部屋を出ようとした時だった。「おっと、これはドリーブ侯」ちょうど廊下から応接室へ入って来ようとした者とかち合った。思わずドリーブはびくっとしたが、王子ではなかった。執事風の年配男性だ。「な、なんだ。グレグソン卿、貴兄か」「失礼しました。部屋には誰もいらっしゃらないと思っておりましたので」グレグソンという名の年配男性は、ドリーブに会釈してから、後ろのふたりへ視線をやる。エミルはグレグソンの顔を見るなり頭の中の記憶をたどる。会ったことがあるような気がしたからだ。「あっ」エミルは思い出した。グレグソンは、雑貨屋にあの兄弟を迎えに来た男だ。「どうした?」リザレリスがのん気にエミルへ声をかける。「知り合いなのか?」「リザさま。こちらの方は...」とエミルが伝えようとしたが、一歩遅かった。「ったく、兄貴のヤツ。わざわざ部屋まで行って待たされてまで王女様の顔見てどうすんだっての。さすがに付き合いきれねえ」
「そこで何をやっている!」エミルに気づくなり、その者はドカドカと部屋までやってきた。狡猾なタヌキ面に怒りを浮かべて。「ど、ドリーブ様」「お前がなんでそこにいる!会談中ではないのか?」「いえ、中には誰も......」「いないのか?」はい、と頷くエミルを押しのけてドリーブは中に入る。すると彼の視界に飛び込んできたのは、場違いにソファーへ深々と体を預けている侍女だった。「なっ!お前は侍女のくせにそこで何をしている!」ドリーブが声を荒げた。当然だ。特別な来客用の高級椅子に侍女が悠々と身を任せているなど、ありえない。「なんだよ、うっせーな。ドリーブのおっさんか」リザレリスは悪びれることなくドリーブを睨んだ。自分が王女であることを隠すために変装していることも忘れて。「このわたしに向かって侍女ごときが何だその口の効き方は!......ん?」怒鳴りながら侍女へ近づいていき、ドリーブは気づいた。「そのお声とお顔......お、王女殿下!」「そうですけどなにか?」リザレリスはムスっとして訊き返す。相変わらず太々しい王女相手に物を言うのは気が引けたのだろう。「た、大変失礼しました」ドリーブはお辞儀をしてから、即座にきびすを返してエミルに歩み寄っていく。「お、おい。なんで王女殿下がここにいる。床に伏せていることにしてやり過ごすんじゃなかったのか?」「はい。しかし、王女殿下が......」「だ、だからと言って、王子たちと出くわしてしまったらどうするんだ!」ドリーブは必死だった。それはそうだろう。王女の政略結婚を強引にブチ上げたのは彼だ。ただ、あれはあくまで城内と国内世論を味方につけるための政治戦略。〔ウィーンクルム〕との本格的な交渉は、時宜を見極めてから改めて行う算段だった。だから〔ブラッドヘルム〕へ、すでに王子二人がお忍びで来ていたことは完全に想定外だった。運が悪かったとも言えるが、把握できていなかったことは痛恨のミスだった。もちろんドリーブ個人の責任というわけではない。だが、もし問題が起こった場合、ドリーブは政治的責任を免れることはできないだろう。「まだ王子たちは帰ってはいないはずだ!今のうちに王女殿下をお部屋へお連れしろ!そもそもお前はこのような事態にならないためにディリアス公から命を受けているのだろう!?」ドリーブは眼を血走らせ、遅れて入室してき