エミル・グレーアムは刑務所にぶち込まれた。
もはや少年は何もかもに絶望していた。幾度となく自ら命を断とうかとも考えた。そんな時だった。
何の前触れもなく唐突に、エミルは釈放されたのである。何が何だかわからないエミルの目の前に現れたのは、ディリアスと名乗る大人の男だった。
「大丈夫だ。君は悪くない。私が君を許す。そのかわり君には、我が国の眠れる希望のための生け贄となって欲しい。君には素晴らしい才能と素質がある。君こそ相応しいのだ」
幼い少年がどこまでを理解していたかはわからない。だがそれは、エミルにとって救いの手以外の何者でもなかった。
エミルは、ディリアスについていった。
それからのエミルは、ディリアスのもとで魔法を磨くためにひたすら鍛えられた。より上質な生け贄となるために。
才能ある彼は、時間とともにメキメキと実力をつけていった。
やがてエミルは、成長するにつれて、生け贄となったことを誇りに思うようになっていた。自分は選ばれた人間だと思えるから。実際、彼以前の生け贄に選ばれた人間は皆、優れた容姿と魔力を兼ね備えた特別な者たちだった。自分もその一員になれて、彼は嬉しかった。
ただ......。
彼は優れすぎていた。ある者は彼を見て「史上最高の生贄」と称賛したという。それは誇らしいことではあったが、問題は別にあった。
彼はその優れすぎた能力ゆえに、いつの日からか、まわりから気味悪がられ始めた。天涯孤独の身だった彼が、孤独に向かって突き進んでいくのは必然だった。
十歳になる頃には、彼は完全にひとりぼっちとなっていた。
多忙を極めるディリアスは、修行以外に関われる時間はほとんどなかった。
彼とマトモに関わるのは、ディリアス以外ではブラッドヘルム城の一部の大人たちだけ。彼らはエミルを大切な生け贄として丁重に扱ったが、それは少年の孤独な心を癒すものではなかった。
「この人たちは、ぼくが生け贄だから大切にしてくれるんだ。もしぼくに生け贄の価値がなくなったならば、もしかしたらディリアス先生だって......」
少年エミルは、そんなことさえも考えていた。
そうして彼が十三歳になった頃......。
エミル・グレーアムは、眠れる王女殿下の警護を務めるようになる。異例の大抜擢だ。類い稀な彼を見て、ディリアスがそのような判断を下したのである。
しかしこの頃のエミルは、以前ほどこのような事柄に喜びを感じなくなっていた。
選ばれることより、同年代の子供たちと一緒に遊びたい。特別であることより、普通でありたい。まわりと違うことより、まわりと同じでありたい。
そんな平凡な想いを胸に抱いて、ますます孤独感を募らせていた。
ある日。
人通りの多い往来を歩いていたエミルは、思わぬ騒動に出くわす。何かのトラブルで暴走した荷馬車の馬数頭が、街の通りを半狂乱で駆け回っていたのだ。
街が騒然とする中、馬から逃げようとした親子がつまずいて道端に転んでしまう。そこへ暴れ馬が狂ったように襲いかかっていった。
その光景は、エミルの心に幼き日の記憶を鮮明に蘇らせた。繰り返してはいけないーー!
「ああ!!」
誰もが悲劇を確信したその時。
「!!」
ブシァァァッと鮮血の花火が迸った。突如として発生した風刃が、暴馬の首をバッサリと刎ね飛ばしたのである。
地面に転んだままの親子の全身は、血の雨を浴びて真紅を彩っていた。
そして親子の視界に現れたのは......血塗られた手を差し出してきた、血染めの美少年だった。
「い、イヤぁぁぁぁ!!」
悪魔を見るような、恐怖にすくむ親子のその表情は、エミルに痛ましい衝撃を与える。
エミルは飛び出した。途端に何もかもが嫌になった。
「もう生け贄らしく、さっさと血を吸いつくされてしまいたい......!」
エミルが目指した先は、吸血姫が眠る一室だった。
神聖なる寝室。今まで一度も足を踏み入れたことはない。隙をついて風の疾さで侵入した彼は、ベッドに眠る吸血姫へおそるおそる近づいていった。
「!!」
まるで......不幸の海から浮かび上がることを許されず、五百年間の長き眠りの底へ埋められたままの、悲しいまでに美しい寝顔。
目にした瞬間、エミルの中で何かが砕けちった。と同時に何かが形成された。大地が割れて空が浮かび上がるかのように、雲が裂けて海が落ちてくるかのように、彼の心に天変地異が起こった。
「ぼくは、ぼくは、この方の、いけにえ......」
がくんと膝から崩れ落ち、わなわなと震え、涙を流した。
その時、異変を察知したディリアスが入室してきたが、エミルはしばらく気づくことができなかった......。
「リザさま。おはようございます」起きるなり若くて美しい侍女がやさしく声をかけてきた。「おはよう。マデリーン」リザレリスが応えると、マデリーンは満面の笑みを浮かべた。「本日も朝からリザさまはとってもお可愛くていらっしゃいます」「マデリーンのほうこそ朝から美人だな」元遊び人らしくリザレリスも調子良く返した。するとマデリーンの顔がトロけるようにほころぶ。「そ、そんな、リザさまからそのようなお言葉をいただけるなんて」気をよくしたリザレリスは、マデリーンの頬にそっと手を触れる。「こんな綺麗な侍女がいてくれて、俺...わたしは幸せだぜ」「はあ!」マデリーンは膝から崩れ落ちた。「まったく朝から何をやっているんですか」後ろからルイーズが呆れながらやってきた。
【25】夜、皆が帰っていった後。リザレリスが自室に戻っていってから、居間でエミルはルイーズに訊ねた。言うまでもなくマデリーンについてのことだ。確かに彼女は、まるで人が変わったようにリザレリスへ従順になった。しかし彼女がリザレリスを傷つけたことは事実。それなのに侍女として彼女を迎え入れたのはどういうことなのか。「もちろん無条件に受け入れたのではありません。マデリーン・ラッチェンは、私の課した試験に合格したので採用しました」これがルイーズの回答だった。そして彼女はこうも付け加えた。「マデリーン・ラッチェンは、何もかも正直に話してくれましたよ。その上で彼女はリザレリス王女殿下の侍女になりたいと申しました。そんな彼女に対し、私は通常よりも遥かに厳しく試験と審査を行いました。しかし彼女は合格しました。ハッキリ言いましょう。彼女は優秀です。今後、彼女は必ず役立ってくれると私は判断しました」その説明は、エミルを納得させるに余りあるものだった。ルイーズという人間のことをエミルはよく知っている。彼女の課す試験と審査というものが、どれだけ厳しいのかを知っていた。エミルにとって彼女は、真の信頼に足る人物だった。彼は彼女を尊敬もしていた。「ルイーズさんがそう言うなら、そういうことなのでしょう」エミルが納得して見せると、ルイーズは口元を緩めた。
こうしてすっかり楽しい雰囲気となった彼らへ、サプライズが起こったのは夕食の時だった。食卓に着いた彼らのもとへ、ルイーズの指示に従い侍女が料理を運んでくる。最初は誰も気にしなかったが、ふと皆の視線が彼女に貼りついて固まった。ルイーズが満を持してといった具合に、咳払いをひとつする。「彼女は、本日から新しく侍女として入って参りました。マデリーン・ラッチェンです」侍女姿となったマデリーンは、リザレリスたちに顔を向け、挨拶する。「改めまして、本日よりリザレリス王女殿下の侍女としてこちらに勤めさせていただきます、マデリーン・ラッチェンです。どうぞよろしくお願いいたします」部屋に沈黙が訪れる。誰にも理解が追いつかない。皆が口を半開きにする中、フェリックスが吹き出した。「これは参ったな。さすがに僕にも予想外だったよ」笑い声を上げるフェリックスに、マデリーンが体を向ける。「フェリックス様の温情ある措置があったからこそ、今の私があります。本当にありがとうございました」彼女の謝意に対しフェリックスが会釈した時、ようやくリザレリスたちも一斉に声を上げた。「えええー!?」
放課後、肩を落として校舎から出てくるリザリレスを待っていたのは、レイナードとフェリックスだった。このタイミングでこのふたりが待っていたということは、理由はひとつだろう。「リザも聞いていると思うけど」とフェリックスは前置きして、リザレリスの反応を窺ってきた。リザリレスは無言で頷く。それを確認すると、彼は申し訳なさそうな顔を浮かべた。「彼女が自分自身で決めたことだから、これ以上は僕にもどうにもできない」そんなフェリックスに、レイナードは言う。「いや、兄貴は最大限のことをやってくれた。俺なんか最初からなんもできてねえ」レイナードは悔しさに唇を噛んだ。空気が重くなっている彼らを、周囲の生徒たちは不思議そうに眺めていた。いったい王子ふたりが一年生と何を話しているんだろう、という目で。マズイと思ったエミルとクララが視線を交わし合う。「早く参りましょう!」エミルとクララに促され、リザレリスたちは歩き出した。一行が乗り込んだ馬車がリザリレスの屋敷に到着すると、クララが遠慮がちに口をひらく。「ほ、本当に、私までよろしいんですか?」「当たり前じゃん。こんな日だからこそ今日はみんなで楽しみたいんだよ。クララもいてくんなきゃ困る」
人気のない校舎の裏庭までやって来ると、マデリーンが立ち止まり、こちらへ振り向いた。彼女は周囲を見まわしてから、クララへ顔を向ける。「巻き込んでしまって、本当にごめんなさい」自分への謝罪にびっくりしたクララは、慌てて手を横に振った。「わ、私は、むしろ加害者側で」「違う。貴女も私の被害者よ。それに貴女がいなければ本当に取り返しのつかないことになっていたかもしれない」「そ、そんな、私は」「ごめんなさい。そして、ブラッドヘルム王女様を救ってくれてありがとう」「わ、私は、できることをやっただけです」クララは複雑な胸中で恐縮するが、マデリーンの様子には安堵していた。それからマデリーンは、改まってリザリレスの方へ向く。「ブラッドヘルムさん。いえ、リザレリス王女殿下」「は、はい」やけに畏まった様子にリザリレスはやや戸惑うが、このあとさらに困惑させられる。マデリーンが跪いてきたのだ。「この度は、多大なご迷惑を
【24】シルヴィアンナと取り巻きは、教室で呆気に取られていた。あの日の翌日以降、リザリレスが何も気にしていないからだ。怒るでもなければ怖がるでもなし。文句すら言ってこない。ただ何事もなかったように、教室でも外でも普通に明るく楽しく過ごしている。「どういうことなんでしょう......」取り巻きが言うと、シルヴィアンナはふんと鼻を鳴らす。「それよりもラッチェン先輩の停学処分が気になるわ。あの人、いったい何をやったの?」「さあ。あのあと私たちはそのまま帰ってしまいましたから......」「そういう約束だったからそれは仕方ないわ。ただ、あの人の停学処分の理由がわからないと、何となくわたくしたちも大人しくせざるをえないじゃない」マデリーン・ラッチェン停学については、一年生の間でも噂が広がっていた。何せマデリーンは第二王子の恋人だった女。その彼女が停学処分となったのだから、何かと勘ぐられ、囁かれてしまうのは仕方がないことだろう。ただし噂はどれも憶測レベルで、信憑性に欠けるものだった。 「し、シルヴィア様の、おっしゃるとおりです」おずおずと取り巻きは答えた。そうとしか答えようがなかった。シルヴィアンナは苛立ちを滲ませる。